祈りたいと思ったこと
こんにちは。
今日は「祈りたいと思ったこと」
について綴ってみようと思います。
最近、久しぶりに連絡をとった友人が「難病を抱えて生きていること」を知りました。
長いトンネルの中で辛い気持ちや孤独感があったであろうことを思うと、涙が止まりませんでした。
私は自分に何ができるかと考えていました。けれど何かしようとすることはリスクでもあります。
応援の言葉だって彼女にとっては負担や心の傷になってしまうかもしれない。
彼女にとっても病気によって過度に気を遣われるのはきっと嫌なはずです。
そんな中、私の頭を掠めたのは「祈ってもらった記憶」でした。
思い出した『体調不良の日々』
彼女が向き合っている病気と並べて書くのは本当に失礼なのですが…
私は以前、3ヶ月ほど謎の微熱、倦怠感で仕事を休んだことがありました。首のリンパ節が腫れて、痛みがあったことから、勤務先の医師に紹介状書いてもらい、耳鼻科や血液内科など巡りましたがよくわからず。
コロナが流行り始めた頃で、微熱のせいで毎回コロナ疑いから始まる診察、倦怠感で座ってるのも辛いのに長い待ち時間…
若い医師から「ウチ(耳鼻科)じゃありません」的なことをさらっと言われた時は、泣きたくなりました。
医師は忙しそうだし、おそらく耳鼻科じゃないだろうな…という自覚がある中で、迷惑そうな顔をされてしまったことがとても辛かったのです。
病院に行って、みてもらってもよくわからず、ヘロヘロになって帰宅。そこには徒労感があるだけでした。
そして日常生活もやっとなのに、体を酷使する病棟看護師の仕事に復帰できるのか、布団の中で天井を見つめながら不安と闘う日々でした。
「五條天神社」での祈りと希望の光
そんな中、一筋の光のようなできごとがありました。定期的に連絡を取っていたある友人が、私の病気が治るように祈ってくれたのです。
医薬の神様で知られる、東京上野の「五條天神社」へお参りに行ってくれました。そして、動くのも人に会うのも億劫になっていた私のところにお守りを持って突然やってきて、ドライブに誘ってくれたのです。
その友人が現夫なのですが…
彼が「自分が何もできなかったとしても味方になってくれた」「自分の幸せを祈ってくれた」ことがとても嬉しくて、私もそうありたいと思いました。そして、彼となら家族になれると思ったのでした。(当時は😅)
結局病名はつかないままでしたが、 彼が祈ってくれたおかげか神社のおかげか、首の腫れや倦怠感も徐々に引いていき、仕事復帰もすることができました。
(当時の話を彼にすると、「ラーメン屋のついでに神社寄っただけだ」と照れ隠しのように主張する素直じゃない夫です)
誰かが祈ってくれること
「誰かが自分のために祈ってくれたこと」は、暗闇の中にいた私にとっては心が動いたできごとでした。
直接何かしてくれたわけじゃなくても、祈ってくれる人がいるという事実や念力から、パワーが湧いてくるような気がしました。
私が難病を抱える友人に何かできるわけではないけれど、そして彼女にとって祈ることがパワーになるかはわからないけれど、自分にとってできることは、祈ることではないかと思うのです。
自分にできること
だから、彼女が私の活動を応援してくれるみたいに、私も全力で彼女の活動や夢を応援して、うまくいくように祈りたいと思います。
彼女からたくさん学びたい、一緒に走りたい。
彼女を取り巻く状況がきっとよくなると祈りたい。
毎日、ちょっとでも笑顔になれること、嬉しいことがありますようにと祈りたい。
何もできないなりに、それが私にできることかなと思ったのでした。
おわりに
昔から、祈ることの力を信じられているからこそ、神社がたくさん存在していて、お参りに行く文化があるのかなと思うことがあります。
私も、祈りの力を信じたいと思います。
読んでくださったみなさんが、今日一日幸せに過ごせますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。